
綾南町立滝宮小学校学校栄養職員 愛染麻水
体験の中から自分の可能性を見つけて
こんな経験をしたことはありませんか?何か一口欲しいのだけれど、それが何だか分からない。台所を覗いてみても冷蔵庫を開けてみてもピンとこなくて、あれこれ摘まんでみて、「あっ、これこれこれだった。」とやっと目当ての「それ」を見つけてほっとする。
以前、ある診療所の先生から「食べても食べてもお腹の空く女の子」の話を伺ったことがあります。ある日、診療所に引きこもりの女の子が訪ねてきて「とにかくお腹が空くので何でも次々とほおばっては食べるのだけれど、一向にお腹が満たされることがない」と訴えます。話を聞いているうちに、その女の子の食事には極端な偏りがあり、その不足する栄養素を補おうと本能的な摂食行動をとっていたことが分かってきたのだそうです。
私たちの体は、大人であれば約60兆個という膨大な数の細胞から成り立っています。細胞が集まって組織をつくり器官や臓器をつくり、そして固体が成り立っています。その一つひとつが生きてシグナルを発しながら私たちの恒常性は保たれています。のどが渇けば水分を補給するし、お腹が空けば食事をとります。ところが私たちの体は、そこに「心」が加わることでもっと複雑になります。学校栄養職員となって7年が経とうとしていますが、時々子どもたちのなかに「心」の問題として、この「食べても食べてもお腹の空く女の子」を見かけることがあります。いつも何か満たされずに、どうすればいいのか、どうしたいかさえ自分のことなのに見えてこないといったように。
ところで、私は栄養士なので職業柄子どもたちに「野菜をしっかり食べようね。」と話をする機会がよくあります。すると、子どもたちからよくこういった答えが返ってきます。「野菜ジュースを飲んでいるから大丈夫」と。たぶん、ご家庭のほうでも野菜嫌いの子どもたちに少しでも野菜の栄養分を補給しようとして、苦肉の策として使われていることがあるのかもしれません。でも、本当に「野菜ジュースで大丈夫」なのでしょうか。
私たちは、生きるために食事をします。つまり食物を消化することで、その栄養素を吸収し私たちは生命の糧を得ています。この消化・吸収の一連の過程は、食物を見る、つまり認知することに始まります。例えば「梅」を認知すると経験則に従い自然に「唾液」が出るであろうし、また大好物のものであれば気持ちがワクワクします。つまり視覚的に入ってきた情報を脳で判断することからすでに消化・吸収が始まっているのです。それを、口に入れ、咀嚼しながら舌や歯、鼻や耳で美味しさを味わい食道へと嚥下します。そして、それが刺激となり脳を始め各消化器官系から分泌される酵素やホルモンが複雑にバトンリレーをしながら、消化・吸収が進んでいきます。食事中に交わされる会話もこの過程に大きな影響を与えると言われています。すなわち、消化・吸収は体中の感覚や感情を使って行われているのです。ところが「野菜ジュース」や最近流行の「サプリメント」ではどうでしょう。この一連の過程がほとんど無視されて、いきなり消化された高濃度の栄養素が体の中に飛び込んでくることになります。つまり栄養素学的に「大丈夫」であっても、食事のもつ有益性はこれらにはほとんど望めないのです。
このことは、今の子どもたちの生活にあっても同じことが言えるかもしれません。情報化社会で暮らす子どもたちは、その「過程」を経験や体感することなく、いきなり高濃度でかつエンプティーな刺激を受け入れてしまうことが多くあります。やがて、その刺激が麻痺してしまい、予想もつかない行動に出ることすらあります。
そうした中、本校の“親が決して手伝わず子どもだけで作る「弁当の日」”は、子どもたちが「過程」を学ぶよい体験の場であるといえます。“こんな弁当が作りたい”と目標を設定したうえで、その課題を実現するために子どもたちは多くの試行錯誤を繰り返します。その過程には、家庭の中でのふれあいや友だちとのかかわり方など多くの体験があります。そして、弁当完成までの一連の過程を経験することによって子どもたちは多くのことに興味や関心を持ち、自尊感情を持ち始めます。豊かに人と関わりながら成長することは、社会性を涵養するばかりでなく、自他の存在を認め、豊かに生きることにもつながります。この芽は、もしかすると自分が何をしたいのか、どのように人とかかわればいいのかという生き方そのものを見つける力となるかもしれません。体験の中から自分の存在を認め、自分の可能性に気づくこと。子どもたちにとって「弁当の日」の体験が、「食べても食べてもお腹の空く女の子」にならないための処方箋であってほしいと願っています。